空港へ向かう電車のリズムに揺られながら、私はふと、窓の外を流れる灰色の景色に過去を重ねた。
悲しいことに、私たち二人の両親はもういない。
2032年5月。突然の事故だった。もうすぐ、あれから3年が経とうとしている。
「時が解決してくれる」なんて言葉は嘘だ。3年という月日が流れても、胸に空いた喪失の穴は塞がるどころか、冷たい風が吹き抜けるように寂しさは当時のままだ。
しかも、唯一の肉親である姉はイギリスにいた。この3年間、私は広い屋敷で一人、孤独と向き合って生活してきた。だからこそ、今日の姉の帰国を、渇いた喉が水を求めるように心待ちにしていたのだ。
亡くなった父は、祖父の代から続く会社の経営者だった。父の商才は傑出していた。祖父以上に業績を伸ばし続け、会社を拡大していった手腕は、娘の私から見ても鮮やかだった。けれど、父は決して仕事一筋の冷たい人間ではなかった。母に対しては恋人のように優しく、私たち姉妹にも惜しみない愛情を注いでくれた。
母もまた、太陽のように明るく朗らかな人で、誰からも好かれていた。そんな両親だったから、私たちは温かい愛情の繭(まゆ)に守られ、本当に大切に育てられたのだと思う。
私が大学に入学し、そんな幸せを満喫していた矢先のことだった。
突然の訃報。
それは、私の世界を根底から覆す破壊的な一撃だった。心が木っ端みじんに砕け散り、生きることさえ億劫になりかけていたその時――姉が、イギリスから帰国してくれた。両親が亡くなったのだから当然の帰国かもしれない。でも、あの時の私にとって、姉の存在は暗闇に差した唯一の光だった。感謝してもしきれない。
姉は凄まじかった。
悲しみに暮れる私とは対照的に、姉は一滴の涙も見せず、冷徹なまでに完璧に両親の葬儀を取り仕切った。会社のこと、膨大な遺産の整理、法的な手続き……。全てを一人で背負い、淡々と、しかし完璧にこなしてくれた。姉が言うには、娘達のためにと父が生前に遺言状を作成し、弁護士に託していたおかげでスムーズにことが運んだらしいけれど、それでも20歳(はたち)そこそこの女性ができる仕事量ではなかったはずだ。
そして、私の当面の生活環境を整えると、姉は再びイギリスへと戻っていった。
姉が日本を発つ日。成田空港の出発ロビー。
私は寂しさと不安で押し潰されそうになりながら、姉の背中を見送った。また一人になる。その恐怖に足がすくんだ。そんな私を見透かしたように、立ち去る間際、姉は振り返って言ったのだ。
『立ち止まってどうするの。前進しなさい。……ここで彩心が腐ってしまったら、両親が注いでくれた愛情も苦労も、すべて無駄(コストの浪費)になるわよ』
厳しい言葉だった。でも、その瞳は強く、前だけを見据えていた。その凛とした姿に、私はハッとさせられた。私には姉がいる。心から信頼でき、尊敬できる、世界で一番の姉がいる。決して一人ではないのだ。 ――お姉ちゃんのように強くなりたい。踏ん張って、前へ進まなくちゃ。そう奮起し、私は今日まで必死に頑張ってきた。
そして、ついにその日が来た。頑張ってきたからこそ、これから二人で過ごせる未来に、抑えきれないほど心が躍っている。
ただ、姉は会社の経営には興味がないらしく、また自分たちが学生であるという理由もあって断ったようだ。それでも会社の経営陣からは、卒業後ならどうかという話を持ち掛けてきたのだが、姉はきっぱりと断り、その代わりというわけではないが、父の弟である叔父と経営陣に任せることにした。叔父にとっても渡りに船だったようで、快くその申し出を引き受けてくれた。
というのも会社以外の遺産で十分すぎた、資産数十億円という遺産があったからだ。相続税などを差し引いても、その遺産で、一生涯、いやそれ以上、経済的になんの不自由もない生活が保障される。
ふと、窓の外を流れる街並みを見る。
ニュースを見れば、物価高騰に喘ぐ人々の悲鳴が聞こえてくる時代だ。同世代の学生たちは、高騰する学費と生活費を稼ぐために、学業を削ってアルバイトに明け暮れている。それでも生活が立ち行かず、退学を余儀なくされる者も少なくない。そんな中で、私たちは「働く必要がない」どころか、何不自由なく大学に通い、好きなことを学べている。
両親を失ったことは、身を切られるほど辛く、不幸な出来事だった。けれど、その両親が命を削って築き上げ、残してくれた莫大な資産が、残酷な世界から私たちを守る「防壁」となってくれている。苦労をさせまいと、これだけのものを残してくれた父と母には、感謝してもしきれない。この特権的な幸福を噛み締めるたびに、守られているという安堵と、もうお礼を言う相手がいないという寂しさが同時に押し寄せてくる。
だからこそ、姉はそのままイギリスで学び続け、私も大学に通い続けることができたのだ。


