ふと、くだらないことを思う。
この会話、ハンドルの向こうにいるタクシーの運転手には、どう聞こえているだろう。「帰宅した後、晩ごはんをどうするか決めていない」程度の話に聞こえているに違いない。
まさか、黒いケープを纏ったこの美しい女性が犯罪科学の博士であり、私たちがこれからの人生(キャリア)の話をしているなんて、夢にも思っていないだろう。
姉は、落ち着いた様子で、3年前と変わらず、あまり表情を変えずに言葉を継いだ。
「今は、保留ね」
本当に、ゆっくり、私が想像する以上にゆっくり考えるつもりではないかと一抹の不安がよぎるが、とりあえず了承する。今は、この「無風」の安らぎの中にいられるだけで十分だ。
「うん、そうしよう」
次の会話に移ろうとした時、めずらしく姉の方から尋ねてきた。
「順当にいけば、もう学部最終年(シニア)でしょう」
「うん、4年になるよ。一応、修士課程までは進みたいと思ってる」
「検事や弁護士にでもなるの?」
「お姉ちゃんと同じ、決めてないよ」
「同じか。……そう」
姉の短い言葉の中に、私の現状に関心を持ってくれている微かな温かさを感じた。 姉は感情表現が乏しいけれど、決して冷酷なわけではない。私にだけわかる周波数で、心を通わせてくれている。運転手さんには伝わらないだろうけれど、この車内には今、私たち姉妹だけの穏やかな空気が流れていた。
霧笛(むてき)のティーハウス
自宅近くでタクシーを降りると、懐かしい空気が肌を撫でた。 目の前にそびえるのは、変わらない我が家。両親が残してくれた、私たち姉妹の帰る場所だ。
「部屋はそのままにしてあるよ。定期的に掃除はしているから、埃は溜まってないと思う」
私が伝えると、姉は我が家を見上げ、短く息を吐いた。
「そう。ありがとう、助かるわ」
その一言に、3年間の私の留守番が報われた気がした。 さて、家に入ろうか――そう思った時、ふと、伝えておかなければならない重要なミッションを思い出した。
「そうそう、煌良(きらら)ちゃんがね、『佳穂が戻ったら一番に教えて』って言ってたから、一息ついたら連絡しに行ってもいいかな?」
本多煌良(ほんだ きらら)。 姉の高校時代からの数少ない――というより、唯一無二の親友だ。人を寄せ付けない「魔王」と呼ばれた姉の懐に、ニコニコと入っていける稀有な存在。
「連絡? 電話じゃなくて、直接?」
姉が不思議そうに眉をひそめる。 私はニヤリと笑って、指をさした。
「うん。だって、すぐそこだもん」
「そこ?」
「煌良ちゃん、自分のお店を持ったの。それも、うちの目の前に」
私が指さした先には、通りの向かい側に建つ、赤煉瓦造りのレトロなビルがあった。その1階に、控えめだが品のある看板が掲げられている。
「紅茶専門店をオープンしたのよ」
「……紅茶」
その単語が出た瞬間、姉の瞳の色が変わった気がした。 姉は無類の紅茶好きだ。英国留学中も、きっと本場の紅茶を嗜んでいただろうけれど、煌良ちゃんの淹れる紅茶はまた格別だということを、姉は誰よりも知っている。
「一緒に行く? 美味しい紅茶、飲みに」
私が誘うと、姉は赤煉瓦のビルと、自分の手元にあるハンドバッグを交互に見て、即断した。
「そうね。……会うのは3年ぶりだし、悪くない提案だわ」
「じゃあ行こう! 荷物もないしね!」
私は笑顔で姉の手を引いた。 普通なら、帰国直後は荷解きやら何やらでバタバタするものだけれど、今の姉はハンドバッグ一つ。身軽すぎる帰国が、ここでは幸いした。


