あれから6年。
世界最高峰の研究機関で、犯罪者の心理と行動、そして科学捜査の全てを吸収し、博士号という最強の武器を手に入れた姉が、帰ってくる。
(お姉ちゃん。……見つけたのかな。悪意を止めるための計算式を)
「発生する前に潰す」という姉の挑戦は、超能力でもない限り、不可能に近い。だが、姉ならいずれ出来るかもしれない。そんな期待を胸に、私は空港へ向かう電車に揺られていた。
電車の窓の向こう、鉛色の空の下に、成田空港の管制塔が見えてきた。
この国の淀んだ空気を切り裂くように、彼女を乗せた飛行機が降りてくるはずだ。
戦いは、ここから始まる。
ところで、かくいう私は、身長172cm。姉より2センチだけ高いのが、密かな自慢だ。 姉と同じくスレンダーな体型ではあるし、容姿だってそこそこ悪くないと思っている。ただ、氷の彫像のように人を寄せ付けない姉とは対照的に、私は努めて明るく振る舞い、周囲に親しまれるよう常に気を配って生きてきた。
IQ(知能指数)では、240という天文学的な数値を持つ姉に逆立ちしても勝てない。私のIQは140。世間一般で見れば十分高い数値らしいけれど、姉の前では霞んでしまう。 けれど、私には唯一、姉を凌駕する領域がある。それはEQ、即ち「心の知能指数」だ。 大学の就職活動の一環で受けたEQ診断では、「142」という測定不能に近い異常値を叩き出した。
私は、いわゆる「共感能力者(エンパス)」である。
さっきも触れた通り、これは他人の感情を自分のものとして受信してしまう厄介な脳の特性だ。満員電車に乗れば他人の苛立ちに当てられて疲弊し、悲しいニュースを見れば我がことのように心を痛めてしまう、日常生活においては「生きづらさ」でしかない能力。
けれど――もし、姉がこれからその類稀な頭脳を使って、世の中の理不尽や謎、あるいは「人の業」のようなものに立ち向かおうとするならば、この能力はきっと、彼女を守るための最大の武器になるはずだ。
鉄壁の論理で武装し、感情を切り捨てて真実へと突き進む姉。 そんな彼女が見落としてしまう「人の心の機微」を拾い上げ、嘘を見抜き、強張った心を解きほぐす。私にできることは、姉と世界の間を取り持つ「感情の通訳者(インタープリター)」となり、彼女の死角を埋めることだけだ。姉がそれを必要としているかは分からない。けれど、私が姉の隣に立つ資格は、そこにしかないと確信している。
ただ、予感していることがある。 これから姉が進む道の先で、私は自身の心を削り取るような恐怖と対峙することになるだろう、と。
私が最も恐れるのは、「境界線を越えた者たち」と波長が合ってしまった瞬間だ。
かつて、父の仕事関係のパーティーで、ある詐欺師とすれ違ったことがある。
その時、肌で感じたのは、「反社会的人格者(サイコパス)」特有の、底知れぬ恐怖だった。
彼らの心には、人間ならば当然あるはずのものが「ない」。良心も、罪悪感も、他者への愛着も欠落している。そこにあるのは、爬虫類のような冷たく乾いた捕食本能と、無限に広がる「虚無」だけだ。
彼らと波長が合った瞬間、まるで深海に引きずり込まれるような、あるいはブラックホールに魂ごと吸われるような、根源的な寒気が全身を走る。姉のように論理の盾を持たない私は、その「空っぽの悪意」に無防備に晒され、自分の存在ごと食い破られそうになるのだ。
そしてもう一つ。これとは対極にあるのが、「復讐者」と出会った時の恐怖だ。
彼らの心は「ない」のではない。「ありすぎる」のだ。煮えたぎる怒り、どす黒い憎悪、そして愛する者を奪われた慟哭。それらがドロドロに溶け合い、行き場を失って高圧電流のように圧縮されている。
共感能力者(エンパス)として彼らに触れることは、煮えたぎる火口を覗き込むようなものだ。その熱量は私の許容量を遥かに超え、呼吸ができなくなるほどの圧迫感となって襲いかかってくる。彼らの声にならない悲鳴が、私の喉を通して叫び声を上げようとする。
姉はよく言う。「感情はノイズだ」と。論理的には、その通りなのだろう。けれど、そのノイズの中にこそ、事件の真実や、人が人を殺める「動機」が隠されているのではないだろうか。
だから私は、今日も震える足を止めて、姉の隣に立つ。いつか、あの虚無や激流に飲み込まれてしまう日が来るかもしれないと怯えながら。それでも、私が「姉の目には見えないもの」を見なければならないから。
その姉が、今日、イギリスから帰ってくる。
今、姉を迎えに、私は成田空港へ向かっていた。


